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「国家安康」と「君臣豊楽」の方広寺鐘銘事件
2011-12-31 Sat 22:59
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徳川家康=写真左=は狡猾、老獪。

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豊臣家に因縁をつけ、言いがかりをつけて、淀殿(茶々)とその息子、秀頼をなお追いつめる。

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、方広寺鐘銘事件を利用した。

京都・方広寺にある鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康は、いちゃもんをつける。

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことにした。

ところが幕府は、方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があると供養を差し止めた。

問題とされたのは「国家安康」と「君臣豊楽」の文字。

「国家安康」は、国の政治が正しく安定している、という意味に過ぎないのに、「家」と「康」が離れていることで、難癖をつけ、「君臣豊楽」は上は領主から下は庶民に至るまで豊かな生活を楽しむ、という意味だが、これまた難癖をつけ、豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆し、不敬であるとするものであった。

大河ドラマ「江」をご覧になった方は、分かることだが、家康の狡猾外交は、さらに度を増す。

豊臣氏は、家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明を試みたが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。

且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。

そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告した。

かくして、大坂冬の陣。

豊臣10万人。食料も10年分もある。

東西と北は、堀が30メートルと深く水が張ってあり、難攻不落とされる。

一方、家康は20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲した。

心理戦争で、夜、深夜、早朝、一斉に勝ち鬨をあげさせ、さらに外国製の大砲300で城に向け発砲し、淀殿らを脅した。

落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承したが、家康の狡猾外交はまだ終わらない。

和議の条件は大坂城の総堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊。 ついには、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となり、豊臣滅亡は時間の問題となった。

大坂夏の陣で、秀頼と淀殿は自害した。

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徳川家康が嫌いで、豊臣秀吉が好きな日本人が多いのも、このことからでしょう。

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あいち戦国姫隊・於大の方(おだいのかた)
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